ハラペコ少年M


おにぎり

  ときおり追憶が波のように押し寄せ心を浸す。そこでは両親が生きていて、幼いわたくしがいる。それを映画を見ているかのようにはたから眺める。次に、かすかな最初の記憶を呼び起こす・・・・・道端に目をやると乾いた土の両側には半分踏みしだかれたペンペン草が生い茂っている。「我が輩は?」とまずは切り出す隣家のお爺さんは古き在郷軍人で、ナポレオンのような、皇室馬車の御者のような帽子と大礼服を持っていた。と、突然として、次の思念が打ち寄せる。神様、いま生きているという事実に感謝いたします、と。わたくしが生きている限りにおいて、亡くなった父母も親友もこの心の中で生き続けるのですと。そんな意味合いでもいましばらくの時間を下さい、と。そうすればまだまだ美味しいものも食べられることだし・・・・・でもハラペコになってしまうことだってあるのかなァ・・・・・



  さて、亡母は家に小麦粉しかなくなると、溶いた小麦粉を七輪で焼いてパンを作った。しゃぶしゃぶや中華の火鍋のときに時々見るような鍋の中央がドーナツ状にくり抜かれ丸い煙突になっている形のアレ。材質はアルミの鋳物。終戦直後はイーストもなく、それを食べる誰もが嬉しそうな顔をしなかった。ただ作るのを見ていることが楽しかっただけ。わたくし二才か、三才よりは前。


  それより前の、わたくしが物心つくちょっと前の頃のある日。これは後年、子供のとき聞いた話。配給の貴重な小麦粉で「我が輩」のいる隣家はうどんを打ったそうな。隣家の三世代の口には少々量が足りないかと。女共の働きを見るともなく見ていたワガハイは聞かせるでもなく「ワシはうどんはどうでもよろしい」と、ちょっとお出かけ。腹を空かせて帰宅したワガハイの分は当然のことすでにして皆の腹の中。留守の間に、おじいちゃまはうどんがお嫌いだから皆でたべましょうネとおばあちゃまの一声。皆、久方ぶりなる満腹感。「我が輩は皆のためを思って言ったまでだっ!それもわからんのかっ!」とは、思わず涙声のワガハイ。みんなおかしくも悲しく腹を空かせていたのだ。


  「ギブミーチョコレート」とは口がさけても言わなかった。「そう言うとGIがくれるんだってヨ」と言うと両親からひどく叱られた。踏切などにはクロッシングの略エックスの大きなバッテンの形の標識があり、夜間、車のヘッドライトに反射するようにボールガラスが埋め込まれていた。列になっているビーダマ状のそれを年上の小学生は釘で一生懸命抜き出していた、ビーダマ欲しさに。幼過ぎるわたくしには不器用にもそれが出来なかった。なんでもそうであるが、人に抜きん出て器用であるとか、おとなと同じのことを出来るということが、ケンカが強いということ以上に重要なのであった。


  しかしこういう光景に接したこともある。いつもはもっとベーゴマが強かったハズなのにあの子、と。年上の子も混じっているような集団においては、多少出来ても出来ないフリをする,という知恵だ。年長の子のメンツをつぶすことによる先輩たちからの嫉妬、これには怖いものがある。そういう集団での修練を積んで、一層日本人に、一層フツーの人になっていくのだろう。わたくしもそうなっていったのだった。


  ある日、遊び仲間の家に上がり込んだ。ちょうど子供たちだけの早めの夕飯どき。慣れた手つきでお醤油をご飯の上にチョンチョンとたらす。さすがに上のお姉さんは手で隠すがごとくに恥ずかしいかの顔、わたくしには見てないですぐ帰っておくれと。お膳の上には当然のことオカズは一切ナシ。そういえばズーッと後年、バリケード占拠した六十八年、時は七十年安保の前夜。占拠中の校舎地下の学食調理場。何か食うものないかと引っ掻き回して、入手したのがニボシと生米。中華鍋にてカラ炒りしたニボシの空きっ腹にナント美味なるかな!ついでにビール、という思いは当時誰の頭にも浮かばなかった。学生はそれほどビンボーまたチョー真面目というよりも、それどころか酒類は街の酒屋商店に行かねばどこにも売っていなかった時代。つまりコンパの時以外アルコールのアの字もナシ。次に生米はと、土鍋でテキトーに炊いて、ここで先ほどの醤油チョンチョン。(ここで、関西の諸君には既知のイイはなしをひとつ。梅田に阪急百貨店がオープン。自慢の大食堂で創業者小林一三発案のライスカレーが大評判。東京の百貨店で五十銭であったのを福神漬け付きで二十銭。ときはおりしも大恐慌直前。五銭の福神漬け付きライスだけ注文し、テーブルのソースをかけるというソーライスのお客続出。社員がそれでは儲からないと言う中で、小林はライスだけのお客には福神漬けを増量させたと!)似たような話に、まいう?のあのおデブちゃん。スエヒロだったかに務めていたころ、まずしさのあまり,と言うか,この場合空腹のあまり、店で隠れてメシをかき込んだと。オカズは・・・・上にたらしたドレッシング。その美味なることよ!と。見つかってしまったが、上役は見逃してくれたと。そしてまた京大かどこかの山岳部、むかし飯ごうでメシを炊き、それを二つに分け、醤油でからめた半分をオカズにあとの半分のご飯を食べたと。み?んな明るく楽しいビンボーの話、なんかじゃない!それしか選べぬ人生であったのだ。


  わたくし私立小で給食知らず。当時コッペパンというのがどんなものかと想像は膨らむばかり。街の公立校の校門前に立って見知った顔が出て来るのを待った。ランドセルから取り出したのをほんのを少し貰った。口に入れると、食パンでもなく、甘食でもなく、もちろん形は似ているものの後年のバゲットなんぞとまったくの別物。その子は食べずに家で待つ腹を空かせた妹に持ち帰るのだ。


  ああ、み?んな腹を空かせていたのだ。私立のミッション校なんていったって、貧しい奴は隠すようにして弁当食っていた。正月の後などには醤油に付け焼きしたモチだけのヤツもいた。制服はツギが当っているのが当たり前で、ズボンのお尻は野球のミットのように補強されていたっけ。


  そんなわけで、わたくし、いまだにご飯粒も残せない。アフリカでは、北朝鮮では、飢えるヤツもいるに違いない。そう考えると、少なくとも食物を無駄に捨てる気にはなれないのだ。


  目を閉じると亡母が作ってくれたオカズが目に浮かぶ。イタリアンでもなく、フレンチでもなく、ましてやどこかのエスニックでもない。まさに正統的なるイモの煮っころがしであり、ナスの油味噌であり、切り干し大根、ヒジキだ。ナ〜ンでもない、このなんでもなさが懐かしい。これが、わたくしの最後の晩餐のメニューである。しかし・・・・・こんな最後の晩餐なんかまだまだ食べなくてもいいから、いましばらくは味の旅を続けよう。そしてこの胸の中で生き続けている人々と変わらぬ会話を続けるのである。ああハラヘッタな〜!


  ‹戻る›