人生最大の危機


クラゲ

  母はわたくしのランドセルを引っ掴み、「それならば、もういいです!」と一声。そして突如として物陰に行ったかとおもうと、中の教科書を破りだした。その、こちらの意表を突いた母の行動、教科書の丈夫な紙が破れるときの大きな音。ああ、わたくしはもう学校には二度と行かれなくなってしまったのだという儼然たる事実。その取り返しのつかぬ決定的なる出来事に思い至り、突然恐怖にかられ、事の重大さ加減に気づき,恐ろしさのあまりに泣き叫んだ!小学校の一年生の時。種明かしをするならば,母は物陰で古新聞を破り裂いていたに過ぎなかったのではあるけれど。



  何があってそうなったのかは霧の彼方で、もはや定かではないのであるが、要はその時、わたくしがイイコではなかったのだ。もう学校になんか行きたくないとか、母にたてついて何かフテ腐れたことを言ったのではなかったのか。ただその時の紙が裂ける音で、ああこれでこのボクは人生から決定的にドロップアウトしてしまったのだという取り返しのつかぬ事実に対して抱いた恐怖は六十年以上経っても鮮明に覚えている。


  最近思うのであるが権威や長上に対する恐れ、これは言葉をかえるなら畏怖の念とか、あるいはどうにもならない理不尽なる運命に対しての絶対的なる服従とか、いろいろな恐怖の観念、これは大事なことなのだとつくづく思う。そこで、このように、身に降り掛かる恐怖をともなう不幸な出来事に対して古来我々が身過ぎ世過ぎしてきた後知恵こそが、ひとをおとなにしていったという事実を認めねばなるまい。それはつまり最近流行の、いわゆる弱者と言われる人々に対する「支援」、これとは正反対のいきかたである。こういった「支援」の正反対の考え方について今回語ろうか。


  いつも思うのだ。人類は今日まで三百万年やってきた。いつの時代も、あまたの災害や戦災や病があった。これら不幸があったからこそ我々は強くなったのではなかったか。三百万年前からついこの六十年ちょっと前までだって、戦争から運良く帰国できた兵士の心的外傷(PTSD)へのメンタルケアなど組織立って行われもされないで来たのだ。もちろんのこと、ここで、不幸であった方がよい、などとは言わない。言えない。が、しかし、人間とは過保護にすればするほど際限なく弱くなっていくものなのだ、とは言えよう。つまり人は助けられても助けられても、いつまでたっても、もらいかたが少ないといった不満だけが増幅する。それが人間なのである。それを我々は経験や歴史から学んで来たのではなかったか。つまり、人間とはそのような存在であるという洞察や認識無しにはこの社会のシステムを作ってはならなかったのだ。それに関しては現今の我々は脳天気である。今はついにそのしっぺ返しを受けているのであるとも言えようか。それがモンスターペアレンツであり市役所を悩ませるモンスター市民であり、我々のモンスター患者でもある。それを逆さにすれば、あるいは引きこもりである。そして現在、社会としてこれらの人々を「支援」することが推奨されるようになってきてしまった。さらには生活保護のシステムも敷居が低くなりすぎたことにより、容易に、よりいっそう人を弱くさせているのではないか。このような社会のシステムはどのような考えから来るのか。それはつまりは人間性のありように関して我々の社会がまったくの性善説であるからなのだ。


  かっては唯物史観が或る意味そうであった。歴史観というものが機械的なる人間理解から来ていたし、まあ、当時の圧倒的な貧富の差を前にしては人間性の闇の部分などは消し飛んでしまっていたのだ。で、突然としてのこの現在。さて我々はどうすればいいのだろう。


  我々は国家社会に出来うることには限界があるということを、この本当は最初からそうであったことなのではあるが、とくと納得するべきである。つまり、国家とはなんでもそのせいにしさえすれば済むような便利なサンドバッグではない。それをブっ叩いて蹴飛ばして溜飲を下げるような存在でもない。今まで日本国がまがりなりにもしっかりやってくれていたからこそ我々は現在のこのような自由と安全を享受できる。それに対しての感謝の念を少しは持ってもバチは当るまい。すなわち今や我々は国家に対して権利ではなく、色々な義務を負うべきなのだ。


  悪口叩きついでに運動というかスポーツに関するある重要なる真実について指摘しておきたい。スポーツはシロートの真の肉体的鍛錬という意味においては、上手になるに従いその意義を失う。乃至は効用を弱める。テニスを例にとろう。たとえば諸君は下手なあいだは、それなりにそれこそ全身の余分な筋肉までをも総動員して「無駄に」動き回り、その結果運動としては十二分の効用を得ることができよう。しかし上手になるにしたがい、身体の動きは合理的に「無駄無く」最小のエネルギーで対応できるようになっていく。すなわちそれは真の運動による鍛錬の意味からは外れて行くのである。つまりそのテニスとは、それゆえ、いまや単なる合理的なる作業と化してしまっているのだ。であるからタマ?に行くプールでの、わたくしの運動の素晴らしさよ!それを自身十二分に認識しているからこそ、わたくしはプールでやみくもに泳ぐだけのことなどはせず、ゆったりとそこに備え付けのあらゆる新聞紙面に目を通すのだ。それは日経から始まりジャパンタイムス(英字紙の効用にはこんなこともある。ヘ〜えアウン・サン・スーチーって英語のスペルはこうなのか!とか)までをも。またこれは運動ではなくボランティアについてのことなのではあるが曾野綾子氏が似たようなことをおっしゃっている。キミがボランティア活動をしているとしよう。その行為に多少でも重荷を感じている間がハナなのである。楽しくなって来たり負担を感じなくなって来た時が手を引く潮時なのであると。我々は自身の自己満足のためにボランティアをするのであるのならばそれはあなたの精神の慰みものでしかなくなるのだ。


  目を小中学校の現場での最近の事件に転じよう。自殺をする子供もその理由は恐怖からではないのではないか。何かからの逃避ではないか?思考の停止からではないか?もしそのこどもの心ががもう少し強かったら。あるいは自分が自殺でもしたら両親がどう悲しむだろうかと思ったとしたら。つまりその子は今まで恐怖や壁にぶち当たることなく来てしまっていたのではないか。そのような修練もなしに、権利にだけは敏感に育てられ、義務をこなしては来なかったのではなかったか。 


桜

  ところで、この小さいわたくしが感じた人生からドロップアウトすることへの言いようのない恐怖、これが過去においては生来的に人間に備わっていたのではないか。そのハズであったのではなかったか。ここにおいてやはり伝統的な人間関係や育児がいかに大切かが分かる。生来的に人が持っていたハズの感情を人が取得するためには人は伝統的なる情緒のなかにドップリと浸って育てられる必要がある。すると伝統的な共通の情緒をあたかも生来的に持っていたかのように獲得すると思われる。当然そこにおいては小中学校の公教育では不十分である。というか国家はそこまで出しゃばる立場にはない。毎日、学校の門を出た瞬間からそこは社会と特に家庭の権利と義務の「場」となろう。つまり国民国家の中で、小中学校での義務教育とは国民の義務なのであって権利ではないのだ。保護者はそこに対して多くを望んではならない。むしろ義務としての公民としての気概が育つ場と捉えればよい。


  人が生来的に持っていたはず、と言うか持つべきであった、というかの感情とはすなわちコモンセンスのことである。この常識あるいはむしろ良識と言いたいこれを人はどこで手に入れるのか。もうすでに何度も言及したごとく当然家庭においてである。そしてそこから同心円的に人間関係が拡大されて小さい隣近所や学校生活を通じ最終的には国家にまで行き着くのである。


  わたくしは心底両親が今は愛おしく、また生前当時は恐ろしかったことを思い出す。良い教育を受けたと思う。そしてたまに紙の裂ける音を聞くと、思いは一気に過去に飛ぶのだ、今や優しい気分をともなって。



  ‹戻る›