今を去る30余年のむかし、そのころ日本でも目立ってきた乳幼児に見られる指しゃぶり、その中でも特に拇指(親指)吸引癖、それと顎顔面の変形について調べておりました。当時、戦前の日本においてはあまり指しゃぶりは見られず話題にすらならなかったとも小児歯科では聞いておりましたが。そのとき得られた知見に今回触れてみたいとおもいます。もう古くなった調査結果で、そこには時代遅れになった部分もありますが時間の淘汰に耐えて変わらぬ部分もあります。今回は乳幼児によく見られるこの拇指吸引癖を中心に述べて、そして最後にそれに似たゴム乳首(おしゃぶり)吸引癖についても触れましょう。
まず当時の結論から先に述べます。三才を過ぎてまで拇指吸引癖が残りますと、上下の前歯が前方へ傾斜し、なおかつ噛み合わせ時に前歯が開いたままの開咬をきたします。そしてそれのみにとどまらず、前歯の付け根の顎骨も前方に動いて歪みます。顎骨のこの部分は、普通には矯正治療で歯を動かせる範囲を越えていると言われております。つまり極端に言えば、おサルさんのようにこんもりした口元が直りにくいということになります。もうひとつは、拇指が挿入され上下歯列が開いているとき、舌は下顎歯列側においてけぼりになっている状態ですので、上顎歯列は頬粘膜と筋肉に押されて狭く歪み、下顎歯列はこの低位にある舌により横に開き加減になります。
当時の著明な医事評論家がテレビや御著書で乳幼児の指しゃぶりは胎内にいるときから(ちょうど当時、拇指吸引をしている胎児の母胎内写真が米ライフ誌の表紙を飾って、話題になっていたときでした)していることでもあるし、問題ナシ、と語っていらっしゃいましたので、この事実を指摘しましたところ、ただちに反応して下さったことも思い出されます
現在、拇指吸引癖に対し小児歯科専門医は何と言っているでしょうか。三才を過ぎたらノーという立場が大半で、その根拠はさきに述べた顎骨の歪みを問題にします。
つまり、筆者自身、昔も今も、清潔にした親指一本で精神の安定と幸せが得られるものなら安いモンだという意見に一面同調してもおります。ただ、顔の変形には困ったモンだというのがいつわらざる立場なのです。
その後の研究において、ヒトとは赤ん坊のときから、不満があるから習癖が出るなどという単純なものでもなく、より積極的に快の追求からの面すらあるという合理性を越えた人間性の深淵すら覗き見、これはやはり人間の存在とは性悪説をとらざるを得んナーと思ったものです。
さて表題の「針金かあさん」。研究の文献渉猟中に出会った外国の写真に筆者が勝手に命名しました。子ザルが2匹いました、両方とも本物でない人形の母ザルにかじりついて。人形は全身粗い太めの針金製です。両方とも手足はなくただの円筒形で、顔らしきものが一応はついています。片方の胴体にはタオルが巻かれておりました。もう一方は針金むきだしです。何とも哀れを催す寒々とした光景です。そして、そんなであってもタオルの方の子ザルは一応しっかりかじりついて眠っておりました。針金むきだしの方は?子ザルはしっかり親指が口に入ったまま目を見開いておりました。
最後になりましがゴム乳首に触れましょう。前歯への悪影響の度合いは拇指のときほどでもないのですが、使用時間の長さ故かやはり歯列弓全体への悪影響はあり、上顎前突・開咬・臼歯部交叉咬合(これらはさきに触れました)の発現が高率です。それはヌーク型と呼ばれるの最近のヨーロッパ製などによく見られる、最初から乳児の口中で圧平された乳首の形態が付与されたゴム乳首に関しても同様にダメだそうです。それと特筆すべきは常用児は口腔内にカンジダ菌が定着し、呼吸器感染症や中耳炎のリスクを高め、それらが原因でのアトピー性疾患の危険性があるそうです。また拇指のときには問題にならなかったムシ歯が増えるようです。では良い面は?睡眠が浅くなるからか、突然死が少し低いようです。
参照:*「拇指吸引癖の顎態に及ぼす影響」澤野宗重、13:41-54、1975 小児歯科学雑誌 13巻1号
*「ゴム乳首を推奨できるか」米津卓郎、東京歯科大学小児歯科学講座、東京臨床小児歯科研究会編「会報」第21、22号、平成14年11月