地元、鎌倉市が出している月刊「鎌倉衛生時報」紙に掲載された当院院長による文章のうちのいくつかを転載いたします。
かまくらえいせいじほう
さて今日は哲学的童話のお話です。昔々の。。。。でなく今でさえ人体は一本の管です。口からお尻の穴までの。そして人体は摂食つまり飲食したものだけで出来上がっていることは皆様ご承知のとおりです。歯以外の全身の細胞には新陳代謝というものがありましておよそ五年で歯以外の全身の細胞は全とっかえとなります。ということは五年前のあなたと今日のあなたは実は別人というわかにもなるわけです。
新聞の記事にJRの改札口の通路の床に仕掛けをして、乗客がひとりづつ通るたび、それを体重でわずかに上下させ、それにて発電させる、というのを過日読んだ。つまり人力発電である。筆者はハタと膝を打って、JRよ、お前もやっと気づいてくれたかと、積年の頭上の暗雲が少々晴れもした。
以前は下町の商家の旦那衆やちょっと前までの噺家などに多かった金歯、皮肉なことにこれは非常に持ちが良かった。金で歯全体をくるんでみたり、前歯の場合は窓を開けて歯の白い部分を一部覗かせてみたりと、オシャレのしかた(?)もいろいろとあった。
今を去る30余年のむかし、そのころ日本でも目立ってきた乳幼児に見られる指しゃぶり、その中でも特に拇指(親指)吸引癖、それと顎顔面の変形について調べておりました。当時、戦前の日本においてはあまり指しゃぶりは見られず話題にすらならなかったとも小児歯科では聞いておりましたが。そのとき得られた知見に今回触れてみたいとおもいます。
時折、小さなこどもにも矯正治療をするのですか、ときかれます。そして、早期に始めると全部うまくいくのですか、とも重ねてきかれます。答えはノーでありイエスです。すべての事物には表裏二面があり、いつの場合も今回はどちらをとるべきか、といった判断の問題が人生の背後には常にある、と分かった上でおはなししてみましょう。
表題のごとくの失礼なことを言われぬためには、今流行のアンチエイジングに励むしかないのであるが・・・。歯には他の臓器とまったく異なる特異的な問題が存在するので、皆様すでに御存じのことを、他の切り口から述べるのもあながち無駄ではないと思う。
歯医者の口からこう言ってしまうのもナンだが、我々はまっとうであろうとしたならば、人様の前でそうおいそれと歯を見せてはならぬ。日本人が、少々どころか、だいぶんだらしな気になって来た今日この頃であるからこそ、我々はひと昔前のキチンとしていた祖父母のごとくにつつましやかに、伏し目勝ちに、思慮深く、控えめでありたい。と、まあ、日本人であるならば、というのは半分他愛ない冗談としてだが・・・。
月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年もまた患者なり。日々の通院をならいとし、治療椅子に舟のごとくに身をうかべ、はや三度の食事が楽しかりしき奥歯もいまや夢なりき。古人も多く奥歯に悩み、そして死せるもあり、実に漂泊の身ぞ。余もいずれの頃よりか、奥歯をば失い昔日の強き歯へのあくがれ思いやまず・・・と。なんて戯れ文は日本文学史上のどこにもないのであるが、過日の暁にとんでもない夢にて、ひとり口腔奥への旅の途上にあったのだ・・・。