新聞の記事にJRの改札口の通路の床に仕掛けをして、乗客がひとりづつ通るたび、それを体重でわずかに上下させ、それにて発電させる、というのを過日読んだ。つまり人力発電である。筆者はハタと膝を打って、JRよ、お前もやっと気づいてくれたかと、積年の頭上の暗雲が少々晴れもした。実はいつも苦々しく感じてもいたのだ。たとえばジョギングをしている人、ああもったいない、君は自分のためだけに走っているのだ、なんとかそのエネルギーを人様のお役に立てるよう振り向けられぬものか、とか。テレビのエアロビクスのお姉さん、ああもったいない、そんなに笑いながら手足をやたら振り回して、そんなに自分のためだけに酸素を無駄に消費して。その一部でも発電に振り向けられぬものか、とか。ひとり自分だけのためにしているにすぎぬ健康志向を、皆エライもんだとホメちぎり、それが社会の気分として通底している。
最近それにまた、それを後押しするような運動が国の側から起って来た。今まで使われていた用語の育成、でなくて成育ですよという、分かったような分からぬようなあの成育医療のことである。以前から米国流の価値観を備えた外資の企業などでは、医療費の低減を目論んで(ついでに、その方が本人も幸せになるのだから、よいことなのではあるのだが・・・)社内でのエアロビ体操や筋トレや禁煙を通じ、肥満を例にとった自己管理のできぬ人物は、そも社内の管理職などはできぬ、とばかりに禁酒法のごとくに健康キャンペーンを張っていた。これは極めてアングロ・サクソン的、父性原理としての冷たいと言ってもいい清教徒的プロテスタンティズムに裏打ちされたスタンスであり、ラテン的、カトリック的、小乗仏教的、母系社会的、ある種日本的立場とは本来少々ズレてはいる。ハズだ。
今言及しようとしている国から起って来た運動、つまり成育医療であるが、表向きは、自己の幸福というか、健康に責任を持ったところの民主主義の申し子たる自立した国民の創成ということなのであろう。裏からの、うがった見方でいうなら、これは本当は、ピラミッド型の人口構成がすでに崩れ、国民健康保険が経営的側面において、もはや立ち行かなくなったことからの深い陰謀(いや、口の悪さがつい出てしまった。そう深くもない思惑から来た思いやりとでも言うべきであろう。)に立脚したところのものであるのだろうことは誰の目にも明白だ。翻訳すればつまり、国としては各人が健康にもっと注意して、メタボリック・シンドロームや歯周病からなるべく遠くあって欲しいのだし、そうしてあまりムダな金を使ってくれるなよ、ということなのであろう。予防できうる疾病は国民自らが未然に防ぐということにより、当人は幸福になり、国も医療費の削減という成果を手にすることができる。オール・ハッピーである。
論旨が曖昧になって来たので、最初に戻ろう。現在の日本人の健康観を通じて社会に通底している気分について述べているのだ。健康が幸福であるという、今の日本で一見誰にも反対できぬような価値観。そこから来る、本人もそうとは自覚せぬままの唯物論的人生観。そこからの十分にヒューマニスティックでありながら刹那的な現世利益的にならざるを得ない生命観。つまり宗教的人間の魂の永遠性に対する否定とまでは言わぬが、ある種健康ファシズムが今の日本に蔓延してはいまいか。これは誰も気づいてはいないが、あきらかにファッショであり、未来のある子供達をカルト的に一種洗脳してはいまいか、と筆者は思うのである。グローバルには構造的に搾取している側の日本人はフィジカルには脆弱になり、どこまでも健康や衛生には過保護に遇されてもその有難味は薄れ、精神力は萎縮し、もっぱら関心は肉体的「快」をむさぼる方面のみに向かうのである。そして、あのおじさんは毎日ジョギングをして、マラソンに出たからエライ。あのお姉さんはスイミングを続けナイスバディーだからエライ。あの青年は矯正した真直ぐな歯をホワイトニングし、ニカーッと笑っているからエライ。美容院のごとくに月いちデンタル・オフィスに通い、本当にいい気持ちだとプロフィされているからエライ・・・・本当にエライのか?
前ローマ教皇ヨハネ・パウロⅡ世が、最後の頃の教勅で言っていらした。疾病の持つ意味、つまり不完全さの持つ積極的意味、それは普通にいう「病気になってはじめて健康の有難味が分かる」などという消極的な意味合いではなく、なにゆえ神は人間に死や病気というものをお与えになったか、そしてそれであって、善き人間はそれを感謝しつつ戦いを挑むと。つまり際限なく傲慢へと走る人間の性向を、ハッと気づかせてくれるのは病気と死であると。そういった宗教的次元に思いを馳せない限り、これから科学が進めば進むほど、愚かな一部の人間にとって、現在の自分の肉体に対する不全感は、病気のときだけでなく、いや増すことであろう。
もう一度戻って、健康ファシズムの気分の蔓延している今の日本を考えてみよう。平和国家と良い子と平等主義のあげくに国民の健康に対する不全感は高まった。それはそのまま医療に対する不満となって現れる。それを強力に後押ししているのが国民皆保険なのだ。8割引きを7割引きにしたって、普通の経済観念でいったらどっちだってOKで、感謝の念しか湧かぬ。今の日本の患者にとり、10割全額支払ったことがないから医療の価値が破壊されてしまった。無価値になり、価格破壊されたのである。これが、すでに崩壊したソビエトロシア型の医療経済の現実なのである。そしてわたしたちは社会主義型の保険を、それも本家中国や北朝鮮やベトナム、キューバにおけるより以上に実行し、それもこの飽食と勝手気ままな日本でやって来てしまった。これ以上の人心愚弄はめったにないと考えねばならぬ。
肉体とは結局は精神の容器である。他の動物と人間がどう違うかに思いを致し、変に人工的にケンコーすぎる肉体がむしろ精神を蝕む、ことの重大さをよく見つめねばならない。しかしそうは言っても、わたしたちは実感としては今言ったことを分かるまい。ここで病気や障害や身体に対する不全感について、いかにそのことが相対的であるかについての、ひとつの例を語ろう。アウシュビッツでの体験で有名なフランクルの「夜と霧」、囚人たちは明日も生きていたいと痛切に願ったそうである。何になってとか、どうなってとかの一切を考えずに。健康さえ願わずに。事実、ほぼ全員はすでに何らかの重い病気に罹っていたのである。その人たちには、どんな生のスタイルも思いつかず、ただ明日も生きていたいと願ったのである。